日々の雑感 独り言 No.4
山の本を読んで感じた事
暇なので中古の本を探していたら、著者・松涛明「風雪のビバーク」と言う本を見つけて買い求め、読んでみた。
まず、内容が戦前から戦後の時代の物なので記述に難しい言葉と言い回しがありとても読み難いと思ったのが第一印象だった。
内容は松涛明と言う登山家・・・おっさんは登山家と言う呼称は嫌いなんだけれど、世間では有名な登山家と言う事なので敬意を表しておっさんもそう呼ぶ事にしますが。
この本は、松涛明が遭難して亡くなってから後、所属していた山岳会の人が松涛明の山日記・山行記録や会報に寄せた文章をまとめたもののようで、最後に、松涛明の遭難の顛末を記している。
本の題名の「風雪のビバーク」は遭難する時のビバークから取られたようで、この本の読みどころもその辺りなのか、と思って読んだ。
山岳遭難で死んだ人を悪く言う人は居ないのだが・・・いや、日本人の精神構造としてはそこそこの悪人でも死んでしまってからは石を投げないと言うのが普通なのだから、ましてや美化されがちな山での死を悪く言う人は居ない。
松涛明の山行記録を読んで行くと、果敢に攻めて行く性格なのが分かるし、かなりな堅物なのも分かる。
頑固と言うか頑と言うか、その部分はそっくり孤高の人の加藤分太郎と重なるようにおっさんは読んだ。
山の事を論評する程の経歴も実績も持ち合わせては居ないおっさんでは有るが、しかしそれは技術的な部分ではそうかも知れないが、心理的と言うか精神的と言うか、その部分での事はレベルに関わらず論じて良い事であると思うので書いている。
おっさんが山岳会の記録やら古い登攀の記録などを読んでいていつも感じた違和感がこの本の中にも充満していて、なるほど、あの独特の言い回しや表現方法や論調の源はこの本から発せられているのかも知れないな、と思った。
ナント言うのか・・・殊更特定のスタイルにこだわりを持ち、それ以外に対してはやたらと批判的なのはどの山の本を読んでも感じるのだが、この本ではその感覚がとても強く感じるのだ。
もっとも危険な山を攻めて登っている人達は大なり小なり、自分等のスタイルに自負を持っているだろうから鼻息が荒いのは当然なのだろう。
ナント言うのか・・・一番争い、手柄争いとでも言うのか、そこを強調され過ぎた文章に出会うとちょっと辟易するのだ。
そこには山を楽しむと言うよりは、山を征服している感じが出ていておっさん的にはどうも相容れない。
おっさんレベルの登山でも登れるのかダメなのかは天候に左右される所が大きく、雨だ、吹雪だと分かっていたら最初から山に出掛ける事など無い。
山で死ぬ気など毛頭無いので終始余力を残しての計画と行動と判断になると、攻める山登りなどとは無縁になる。
しかし、遭難した人の話しを見聞きし、また文章を読むと、大抵が予期せぬ悪天候で進退窮まる所へ追い込まれている。
滑落や落雷などには不運であった、としか言えない事例も見られるが、それとても、良くよく深く考えれば、読みが甘かったと言う事に行き着いてしまうとおっさんは思うのだ。
山に登ると言う事は、無理をしないつもりで居ても追い込まれる事が有る訳で、無条件でリスキーな遊びなのだと思うのだが、どーだろうか?
山のレベルと、登山者の技量でリスクの大小は違って来るのだが、それでも、どんなエキスパートでも裏山のような低山でまかり間違わないとは言えないだろう。
そんな理屈から、山での遭難はすべて登山者の読みの甘さから来るものだと言い切って良いとおっさんは思う。
従って、遭難しない究極の方法は、山に行かない事になってしまうと言うのがなんとも悩ましい事なのだが。
山の安全に絶対は無いとすると確率的に捉えるしか無いのだが、確率の計算式が無いから山は難しく、だからこそ魅力的なのだろう。
あいや、話しの焦点がずれてしまった。
「風雪のビバーク」の松涛明なのだが、死ぬべくして死んでいるなとおっさんは思った。
解説の文には、初っ端に雨に降られた不運やストーブの故障や様々な突発的な要因が述べられているが、最初にそんな不運に巡り会ったらさっさと打ち切って出直せよ、とおっさんは言いたい。
しかし、そんな逃げ腰では記録は残せないと言う事なのだろうか?
そして、おっさんが一番嫌だったのは、この本の核心部とも言える遺書の部分だった。
細かいメモと遺言から、松涛明は最後まで冷静だったと言う見方がされているのだが、おっさんは、最後まで格好つけやがって、と読んだ。
この部分から、意外と小心者で回りの声や評判を気にするタイプの人の匂いを感じ取った。
おっさんの希望としては、短く一言、万策尽きて天命も尽きたので、では・・・くらいに軽く行って欲しかった。
しかし、他人様の遭難に際して書いた遺書に文句と注文をつけるおっさんもかなり無神経で呆れた存在と言える。
だけれど、遭難を美化して伝説に出来た時代はとても良い時代で、それに遭った岳人は相当に幸せだったんじゃないのかと思うのだが、それは言い過ぎでしょうか?